伊達市といえば、連想するのが独眼竜として知られる伊達政宗。
では、政宗と伊達市がどんな関係なのか、
また、伊達市の発展はどのようにして進んできたのか、
「伊達氏」の起こりから「伊達市」の誕生までをご紹介しましょう。
第一部・黎明


開拓の祖伊達氏の起こり

邦成の始祖は伊達実元

 明治新政府ができたあと、北海道への本格的な開拓に初めて取り組んだ伊達邦成(くにしげ)は、仙台藩一門、亘理伊達家の十五代目で、その始祖は伊達実元(さねもと)といいます。実元は政宗の祖父晴宗(はるむね)の弟で、政宗からみれば大叔父ということになります。


十二世紀に伊達氏起こる

 「伊達氏」の姓のおこりは、十二世紀にまでさかのぼり、それまで常陸の国で「伊佐」とか「中村」と名乗っていました。鎌倉幕府の初代将軍の源頼朝が、その頃不仲になっていた弟義経をかくまっていたことを口実に、当時、奥羽(陸奥・出羽の両国)の支配者であった藤原氏を倒すため奥州(陸奥)征伐を行ったときに、その合戦に従軍して戦功を収めたことで、伊達郡が与えられ、この地に居住して「伊達」を姓としました。


 鎌倉幕府が滅び動乱の時代を迎えると、伊達氏は次第に奥州での地位を高め、実元の父稙宗(たねむね)の時代になると、伊達氏の権力とその勢いは奥州を圧するまでになっていました。


 この時代は、勢力を拡大するために一般的に結婚などによる政策がとられていましたが、特に稙宗はこれをたくみに利用し、二十一人いた子どもの大半を奥州の諸大名に縁づけました。


稙宗と晴宗父子の紛争

 しかし、植宗のとってきたこの政策には大きな失敗もありました。それは、三男実元が越後の上杉家の養子となることに長男晴宗が反対したことから起こった父子の争いです。この紛争は、家中や領内の諸臣も二分して争うことになり、当時の将軍足利義晴が調停に入って父子が和解するまで七年の歳月がかかりました。

伊達実元と「竹に雀」の紋



実元の上杉との養子緑組

 伊達稙宗の三男で、伊達市を開拓した亘理伊達家の始祖となった伊達実元は、上杉定実から養子に望まれ、元服した(十四歳)天文九年(一五四〇年)に、養子縁組の話が決まっていました。


 この縁組には、奥州での権力を誇る稙宗と、越後の国を支配していた上杉定実の両者にとって、それぞれもくろみがありました。稙宗にとっては、長男晴宗が奥州を治め、三男実元に越後を支配させることにより勢力の拡大と安定を図ることであり、上杉家にとっても、定実に実子がなく、家臣の長尾為景(上杉謙信の父)が勢いを持ち脅威となっていたことから、跡目相統の解決と伊達軍の武力をあてに地位確保をという切実なものでした。


 養子縁組の話が決まった年、上杉家から伊達家に、「竹に雀」の紋と宇佐美長光の銘刀(記念館所蔵)が贈られ、また、定実の「実」の字が与えられ、幼名時宗丸は実元と名乗りました。


晴宗が武力阻止天文の乱

 ところが、二年後の天文十一年、異変が起こりました。養子縁組の日を迎え、越後の上杉家へ向かっていた稙宗の一行が、突然、軍勢に取り囲まれてしまったのです。それは長男晴宗方の家臣で、この養子縁組に伴い実元が伊達家から優れた武士を百人余り家臣として連れていくということに危機感を持った晴宗とその重臣が実力行使に出たものでした。これが、その後七年間、近隣の諸大名を巻き込んで争った「天文の大乱」の発端です。


 長引くこの争いに、始めは稙宗に付いていた実元は和解に奔走し、その努力もあって争いは終結。実元は兄晴宗に付き大森城を治め、伊達家一門の首席に迎えられることになりました。


竹に雀は上杉家への誠意


このようなことから、上杉家への養子縁組は実現しませんでしたが、贈られた「竹に雀」の紋を用いることで上杉家に誠意を表すことにし、以後「竹に雀」の紋(改造修飾したもの)は、仙台藩を代表する家紋としてよく知られています。


闘将 伊達成実



政宗の一つ年下の従弟

 亘理伊達家の二代伊達成実(しげざね)は、永禄十一(一五六八)年、福島の大森城で生まれました。父は実元、母は鏡清院といい、実元の兄である晴宗の娘です。


 政宗の一つ年下の従弟にあたる成実は、幼いころの一時期、政宗と一緒に名僧虎哉宗乙(こさいそういつ)に付き、学んだこともあります。


小十郎とともに双翼を

 天正十三(一五八五)年、政宗が十八歳で父輝宗のあとを継いで米沢城主となった年、成実もまた父実元のあとを継ぎ大森城主となり,政宗に仕えることになりました。それ以後、成実は、人取橋の合戦から大阪夏の陣に至る政宗のすべての合戦に参加し、片倉小十郎景綱とともに政宗を支えたことでよく知られています。


絶体絶命人取橋の合戦

 闘将成実の名を一躍天下に知らしめたのは、天正十三年に起こった佐竹、葦名(あしな)を中心とする連合軍との戦い、すなわち人取橋の合戦です。奥州で勢いをつけていた政宗に、陸奥の諸大名は警戒の目を向け始め、中でも有力な大名である佐竹、葦名は、秘かに対決の構えをとり始めていました。そんな折、二本松城主畠山義継が伊達の威勢を恐れ降参を申し入れてきたので、狩りに出て留守だった政宗の代わりに、父輝宗が宮森城で義継に会いました。ところがこれは義継のたくらみで、輝宗はら致され、高田原で殺害されてしまったのです。怒り、嘆く政宗は、その年の十一月、二本松へ向け進軍。しかし、佐竹、葦名ら諸大名は二倍の連合軍を編成し、政宗にとっては最初の危機となりました。


 伊達軍は奮闘し敵をさんざん悩ませたものの、数の上で絶対優位に立つ連合軍には手も足も出ず、政宗の本陣さえも危い状態でした。


成実の大活躍で敵退却

このとき、対陣していた成実の一隊は、味方が総くずれとなったため、全く孤立してしまいました。しかし、成実は「かかる状勢となっては退却したとて破れることは同じ、むしろここで討ち死にするのが本望だ。退却はせぬぞ」と命令し、これに奮起した兵が一斉に敵の中に割って入り、縦横無尽の大活躍を。結果、敵は退却。闘将成実の決断力と戦略が、この合戦を収めることになりました。


政宗二本松城を与える

 政宗は成実の武勇に非常に感激し、自ら筆をとり「本日の働き比類なき武功なり」とほめたたえました。また、抵抗を続けていた二本松が、翌年降服を申し入れたため、成実は政宗からこの城を与えられ、二本松城主となりました。


勇猛で温厚な公正の人

 伊達市開拓記念館に、伊達成実の甲冑(かっちゅう)が展示されていますが、まず、目につくのは、かぶとから突き出した熊の毛でつくられた「毛虫の前立」です。毛虫は決してあとずさりしない習性があり、この習性にあやかつたものと言われています。勇猛な成実の気性にふさわしいものです。しかし、成実は、単なる武力による武勇だけではなく、優れた戦略家で、その性格も竹を割ったような気性であったといわれています。武勇の反面、こまやかな愛情を持っており、部下に対する思いやりが深く、部下から恨まれるようなことはなく、人に対しても寛大な徳を備え、たか狩りで禁を犯した者に酒を与え罰を与えなかったとも言われています。また、公私の別を明確に守る公正の人で、「私事をもって公事を害せず」ということを守り続けた人です。


政宗と不仲になり流浪

 文禄四(一五九五)年、政宗は、秀吉から京都伏見に邸宅を与えられ、同時に成実も伏見に邸宅を与えられここに移り住みましたが、同年六月四日、成実の夫人玄松院が亡くなったため、角田に帰って葬りました。


 翌年の文禄五(一五九六)年、豊臣秀次の事件(養子秀次の謀反)(むほん)が起こりました。政宗は、この事件に関係したと秀吉から疑われましたが、後に関係のないことが判明しました。


 この頃から、政宗と成実の間が不仲となりましたが、原因は明らかではありません。


 成実は、角田を出て伏見に行き、さらに高野山にのぼりました。角田は政宗に没収されることになり、兵が向けられましたが、城の明け渡しを拒み、成実の家来である羽田右馬之助ら約三十人が討ち果てたと言われています。


政宗の命で四年後帰国

 慶長五(一六〇〇)年、上杉景勝は石田三成とともに、徳川家康をなき者にしようと会津に兵を向けました。これに対し家康は、政宗に後方から行動するよう命じました。このとき、政宗は片倉小十郎らを通して成実に帰国を命じ、成実が帰国することになったわけです。


一六〇二年亘理領主に

 慶長五年七月二十四日、政宗は白石城を攻めると、その日のうちに降服が申し出られ、城は落ちました。この白石の戦いのあと刈田郡は政宗が所領することになったので、政宗は、片倉小十郎を亘理から白石に移し、亘理へは成実を入れることにしました。


 慶長七(一六〇二)年十二月、成実は領主として亘理に入りました。大坂夏の陣で戦乱終結。慶長十九(一六一四)年十二月、徳川氏から大阪出陣の命令が政宗のもとに届きました。これは、徳川家康が豊臣(秀頼)氏を亡ぼすための戦いで、いわゆる大阪冬の陣といわれ、命を受けた大名たちは勇んで出陣しました。政宗も一万八千の軍勢を連れて出陣し、この年四十八歳の成実も、仙台藩の先陣として参加しました。


 戦いは、徳川方の和ぼく申し込みで休戦となりましたが、和ぼくの条件の不調から再び戦争が始まりました。元和元(一六一五)年のことで、大阪夏の陣といわれています。成実はこの戦いにも出陣し、道明寺口、茶臼山で奮戦しました。


 この年五月、豊臣秀頼が自害し、豊臣氏は滅亡。そして、翌年四月には徳川家康も逝去しました。この頃から世の中は落ち着いてきます。


最上平定が最後の出陣

 一方、政宗の側近たちも次々と世を去り、頼りは、成実ただ一人になりました。元和六(一六二〇)年、仙台藩は江戸城の修築を命ぜられ、成実は、政宗の名代として工事の監督を行いました。次いで、翌七年二月、江戸に大火があり藩邸が類焼したため幕府から再建の資金を借りましたが、謝礼の使者として再度、江戸に出向いています。


 また、元和八(一六二二)年、最上家に騒動があり、幕府は。最上家を平民に落とし領地を没収するよう政宗に命じました。政宗は、母親の実家でもあるので、その大役を成実に命じ、成実は、六百の兵馬を率いて山形城に向かい、無事任務を果たして帰国しました。これが、成実の最後の出陣となり、後は平和な人生を送ることになります。


政宗没後伊達家の柱に

 寛永十三(一六三六)年、ついに政宗が世を去り、忠宗が家を継ぎ、元老としての成実の任務は一層重くなりました。


 翌寛永十四年には大洪水があり、藩は苦境に立ちましたが、幕府からお金を借り、この苦境を打開しました。翌年、その謝礼のため江戸に出向きますが、成実は七十一歳の老齢のため、江戸城二の丸までかごでの乗り入れを許されたほか、城内でのつえの使用も許されました。


政宗の子を養子にする

 成実には子どもがいなかったので、政宗の九男喝食丸(かしきまる)(後の宗実)を養子にしました。政宗は、喝食丸の養育には熱心であり、宗実が亘理へ移るとき、「すえ春か住むべき方に船よせてわたり(亘理)そめぬることぞうれしき」という歌(記念館所蔵)を詠んでいます。


 正保三(一六四六)年、成実は七十九歳を迎え、同年二月には宗実に家を譲りました。そして、同年六月四日、「古(いにしえ)も稀なる年に九つの余るも夢のうちにぞありける」という歌を残して逝去しました。


亘理そのむかし



成実以降十五代の領地

 慶長五(一六〇〇)年、上杉景勝の家臣登坂式部のたてこもる白石城を落とした政宗は、再びこの白石の地を所有することになりました。また、政宗はこの年から仙台城築城の準備にとりかかり、慶長七(一六〇二)年には、岩出山から移って大規模な城下町の建設を行っています。これに伴い同年大みそかには、領地の南側の防衛拠点となった白石に片倉小十郎景綱を亘理から移し、浜街道の要所である亘理には成実を配しました。以来亘理は、十五代邦成まで、亘理伊達家の領地となったわけです。


臥牛館(がぎゅうかん)と呼ばれた要害


 亘理には、臥牛城または臥牛館と呼ばれる要害が築かれていましたが、南の方から亘理へ入る道路は、いたる所折れ曲がり、容易に臥牛館へは近づくことのできない迷路のようでした。これに対し、北からの道路は、はるかに簡単で、いかに南からの侵略に心を配っていたかということがうかがえます。


 現在、臥牛館の跡は、成実の公徳をしのび、その霊を祭って亘理神社となっています。浜にならぶ米倉と塩田 福島県中部から流れる阿武隈川は亘理に河口をもつため、亘理には川上の幕府領から多くの米が集まり、荒浜にはたくさんの米倉がありました。


 また、河口付近の浜には塩田がつくられ、仙台領の重要な塩産地でもありました。川や海を渡る所の意味「わたり」の名が初めて文献に現れるのは、続日本紀(七九四年一部上撰、七九七年完成)で、古くから、川や海を渡る所を「わたり」と呼んでいました。


亘理伊達家の窮地



仙台藩政府軍と開戦


 戊辰の役の発端となった鳥羽・伏見の戦で、徳川慶喜に味方した会津藩主松平容保を討伐すベしとの命が政府から仙台藩へ下ったのは、慶応四(一八六八)年一月十七日でした。


 やむなく討会軍を組織し、三月二十七日に出陣したものの、藩内には会津同情論が強く、加えて奥羽鎮撫使(会津を討伐するために政府から奥羽に派遣された軍人)の世良修蔵を仙台藩士が暗殺するという事件が勃発したことで、仙台藩の佐幕的体質は鮮明となり、ついに奥羽列藩同盟の盟主として政府軍と真っ向から戦うことになりました。


 亘理伊達家は、仙台藩の一門として、藩政には直接携わってはいませんでしたが、藩の重大事には相談にのり、また、配慮もしていました。


 会津を攻めるため湯ノ原へ出陣していた邦成は、奥羽同盟に反対する旨の建白書を藩主に提出しましたが入れられず、開戦をくい止めることができませんでした。


大敗し削封を受ける


 武器においても戦意においても劣る同盟軍は、次々と大敗を重ねていきました。仙台城下が戦場となることを何とか防ごうとした邦成は、家老の常盤新九郎(後の田村顕允)と相談し、密かに政府軍との和議を取進めました。九月二十四日、亘理臥牛館で降服式が行われ、仙台藩は六十二万石から二十八万石に削封され、藩主慶邦は隠居、家督は実子亀三郎(三歳)に相続されるということになりました。


亘理は南部藩領地に

 終戦にあたっての功労者で、一門の上席でもある邦成には、仙台藩幼主の後見役が命じられ、常盤新九郎は藩務を担当することになりました。


 しかし、邦成の家禄は、二万四千石余からわずか五十八石五斗に減じられ、その領有地は南部藩の支配領地となってしまいました。しかも、一千三百余人の家中(家来)は武士の身分を失い、それらが先祖伝来の土地に留まるためには、農民となって南部氏の領民となるしか方法がなく、それをいさぎよしとしない者は他所へ行かねばならないという、徹底的に打ちのめされた状態に陥ってしまったのです


十五代邦成の一大決心



断ち切り難い主従の絆

 仙台地方では、武士と農民の区別が明確ではなく、士農共同の耕作が三百年来続いていました。刀を捨て、真の農民になるならこの地にとどまれるとはいえ、永年恩顧を受けた伊達家を領主として失うことは、亘理の領民にとって忍び難いものがあり、家臣の処遇に苦慮する邦成とその重臣らの心痛はたいへんなものでした。


家老常盤新九郎の上申


 明治二(一八六九)年五月のある日、家老常盤新九郎は人払いの上、邦成に「いかに先祖伝来の土地とはいえ、このままこの地にとどまっても、かえって祖先の名を辱めるだけである。幸い、政府は蝦夷地の開拓を計画している。この際、主従一体となり、蝦夷地に移住し自活の道を拓くとともに、北門の警備にあたり、戊辰の汚名を晴らすベきではないか」と上申しました。「計画には大賛成であるが、戊辰の戦費に多大な資金を投入し、また家禄が減少された今、何をもってこの大事業を決行するのか」という邦成に対し、新九郎はさらに熱意をこめ、「亘理には殿を慕う一千三百余人の譜代の家臣がいる。これは何にも勝る資力であり、主従一丸となり決死の覚悟で事にあたるならば、成功しないはずがない」と邦成の決意を促し、邦成もこれを了解、一切の計画と実行を新九郎に一任しました。


有珠郡支配の命受ける

 早速上京した新九郎の尽カにより、八月二十三日に自費による開拓の許可を、二十五日には有珠郡支配の辞令を、邦成は太政官から受けました。


 この時邦成は二十五歳、新九郎は三十九歳で、この重大事の決行にあたり、新九郎は姓を田村と改め、田村顕允(あきまさ)と名乗りました。


蝦夷地開拓の覚悟誓う

 九月十八日、邦成は、亘理伊達家の菩提寺である大雄寺に家臣全員を集め、有珠郡開拓の命を受けたことと、自らの決意を発表しました。


 家臣一同は、涙を流しながら、二度と再びこの地へは帰らぬ覚悟を誓い合ったと伝えられています。


 伊達市では、邦成が太政官から自費開拓の御沙汰を受けた明治二年八月二十三日を開基の日と定め、毎年同日を開基記念日としています。


モンベツの地に希望



邦成現地調査に有珠へ


 大雄寺において、家臣一同に所信を発表した邦成は、支配地の実地検分のため、明治二(一八六九)年九月二十四日、亘理を出発しました。青森、函館を経て、邦成とその一行が有珠に到着したのは十月二十日でした。当時有珠には、運上金の収納、通行人の宿泊などの業務を行う会所が設置されており、支配地受け取りのため、邦成より一足先に到着していた田村顕允は、十月十九日、ここに開拓役所を仮設し、邦成一行の到着を待っていました。邦成は、有珠に着いた翌日から支配地内の調査を開始しました。


肥よくな土地だと判断

 激しく雪の降る中、膝まで埋まるほど積もった雪を踏み分け、オサル川の南、モンベツの地を初めて目にした邦成は、海に臨み、うっそうと樹木が生い茂り、枯草が雪の上に数尺もつき出ているのを見て、この地が極めて肥よくであると判断し、移住の根拠地と定めました。


 その夜会所にもどった邦成は、顕允の事前調査の報告を受け、ますますこの大事業の成功を確信し、大いに喜んで酒宴を開きました。その時、次の一首を詠んでいます。「春に見し都の花にまさりけり蝦夷がちしまの雪の明けぼの」


帰省後移住方法を協議


 十七日間にわたる現地調査を終え、十二月十二日亘理に帰省した邦成は、ただちに重臣を集め、調査結果の報告を行うとともに、移住の方法についての協議を始めました。


 慎重な協議の結果、第一期移住は明治三年三月中旬、戸数おおむね六十戸、人員二百五十人と決定し、移住にあたっての方針を定めました。


単身移住を一切認めず


 この移住方針の中で、特筆すべき大きな特色は、戸主の単身移住を一切認めないという点にあります。これは、家族を引き連れて移住することにより、帰る故郷をもたない立場に自らを追い込み、夫婦・親子が互いに助け合いながら、困難に耐えぬかせようとしたものです。伊達における移住開拓が、北海道開拓史上稀にみる成功を収めることのできた大きな要因のひとつがここにあると、今日多くの歴史学者や見識者から高く評価されています。


海を渡った二千七百人



明治三年集団移住開始


 邦成ら第一回移住団一行を乗せた長鯨丸が、松島湾寒風沢(さぶさわ)港を出帆したのは、明治三年三月二十七日です。出発にあたって邦成は、自らの茶器・甲冑・刀剣・書画などを処分して金に換え、また、移住団各自もそれぞれできる限りの金策をして、移住の準備を整えました。


 一行は四月六日室蘭に上陸、翌日徒歩で有珠に向かい、各家々に分宿しました。そのとき有珠の人々は、当時北海道では何よりのごちそうであった白米のご飯と、有珠湾で獲れたアサリのみそ汁で歓待したと伝えられています。


 翌八日から強壮な若者と、同行の大工・人夫がモンベツに入り、樹木を切り倒し、イバラを除き、十五日までの短期間に、掘立小屋ではありましたが五十六棟の建設を成し遂げて、有珠に収容していた老人、幼児、婦人を引っ越しさせました。


邦成の手で開拓の初鍬

 明治三年四月十七日、邦成自らの手で開拓の最初の鍬が打ち下され、本市の開拓がはじまりました。 以後集団移住は、最後の明治十四年四月まで、九回にわたって行われ、人員は二千七百余人に及んでいます。柴田家中も移住に同行 その中には、柴田家中二十四人が含まれています。柴田家は仙台藩の一家で、戊辰の役により、家禄が五千百五十七石から二十二石に減じられ、しかも、白鳥事件という不幸な出来事で領主柴田中務意広(なかつかさもとひろ)が自決に追い込まれてしまいました。


 このようなおり、亘理伊達家の有珠郡移住の話が持ちあがり、推進派と反対派の対立はあったものの、蝦夷地移住に活路を見いだそうと、わずか三歳の幼君を擁して移住したのです。


 移住は明治三年三月から四回にわたって行われ、現在の舟岡地区に入植しました。舟岡の地名は、郷里船岡にちなんだもので、現在郷里の船岡町は、槻木町と合併され、柴田町となっています。


同胞の深い契り永遠に

 伊達市は昭和五十六年、亘理町とふるさと姉妹都市の締結をしましたが、これは、先人の労苦を偲び、同胞としての深い契りを永遠にとの願いを込め、邦成が初鍬を下した四月十七日に締結されました。




第二部・興隆


北辺の荒野に挑む



 これまでは、伊達氏の起こりから伊達邦成主従が、海を渡って北海道へ移住するまでを紹介してきました。次に移住後、どのようにしていまの伊達市が築かれてきたのかをご紹介いたしましょう。


領主邦成公の決断


 伊達の地に初めて開拓の鍬を入れた伊達邦成公は、伊達政宗の大叔父伊達実元を始祖とする仙台藩一門、亘理伊達家の十五代目領主にあたります。 戊辰の役で大敗した仙台藩は、その家禄を六十二万石から二十八万石に削封され、.亘理伊達家も二万四千石余からわずか五十八石に減じられたうえ、領地は南部藩の支配となってしまいます。しかも千三百余人の家中(家来)が、先祖伝来のこの地に残るためには、武士の身分を捨て、南部藩の領民となるしか方法がないという窮地に追い込まれました。苦悩する邦成に、家老常盤新九郎(後の田村顕允)は、「このままこの地にとどまり祖先の名を辱めるより、主従一体となり蝦夷地に移住し、自活の道を開きましょう」と進言。こうして邦成は、まさに死地に活路を求める蝦夷地への移住を決意したのです。


再興の夢を託して


 その後、田村顕允は上京し新政府に対して自費による移住開拓の陳情をします。当初は、仙台藩の領有地であった日高の沙流、新冠の地を希望しましたが、賊軍の所以からか、北方警備という名目のもとに、半分は火山岩で覆われたこの紋鼈(もんべつ)の地を支配するよう命ぜられます。紋鼈というのは、アイヌ語のモペツ「静かな川」からきており、まちの中央には三本の川が流れています。。


 明治二年十月、邦成は実地調査のために初めて紋鼈を訪れました。そして海に臨み、樹木の生い茂るこの土地が肥よくであることから中心根拠地と定めました。こうして逆賊の汚名をきせられながらも、亘理城再興という遠大な夢をもって、武士の集団移住は始まりました。


伊達に開拓魂あり


 明治三年から九回、二千七百余人が新天地に希望を託し、朔北の荒野をめざします。渡航から開墾、農機具に至るまで自賄いをしなければならず、粗末な居宅での越冬生活は筆舌につくしがたいものがありました。さらに明治四年の新政府による支配罷免は亘理城再興の夢をも奪いさり、邦成は移民取締に、他の家臣は武士としてではなく、農民となって生きることを余儀なくされます。 こうした新政府の中央集権化に加え、凶作の日々が続きますが、進取の気質と不屈の開拓魂は、邦成公のもとに固く結束して今日の伊達市の礎を築きはじめることになります。

開墾から村づくりへ



支配地開拓の変遷






 蝦夷地を北海道と呼ぶようになったのは明治二年八月のことです。開拓使が設置され、国郡の設定が行われると北海道は十一国八十六郡に分けられましたが、現在でもその名称は、ほぼ原型のまま残されています。


 北海道に支配地を許されたのは、一省、一府、二十六藩、八士族、二寺院に達し、八十六郡中、開拓使の支配地は、わずかに二十郡でした。支配主の大部分は戊辰戦争により財政が窮乏し、開拓は困難を極めて支配地の返上を申し出る者さえあったといわれています。本当に心から開拓にあたったのはほんのわずかで、大半は帰国し、せっかく着手した事業もつまずき、土地はさびれていくところもありました。


 太政官より胆振国有珠郡の支配を命ぜられた邦成は、支配所を現在の梅本町に設けました。そしてその開所にあたって邦成は、信義、礼義、廉恥の心を養うことやアイヌの人との融和、保護に努めることを家来に訴えました。これは今日の伊達市の精神風土にもなっています。


 明治四年、政府はついにすベての土地を開拓使に引き渡すよう通達を出します。邦成の支配所は、移民取締所と改称、邦成と田村顕允は住民取締を命ぜられ、開墾指導と米金の分配にあたりました。


伊達村誕生


 明治十二年、有珠郡下は、黄金蘂(おこんしべ)と稀府二村、紋鼈村、長流(おさる)と有珠二村の三つに戸長役場が置かれ、布達、徴税、戸籍、奨学、印鑑、道路河川などの修繕といった事務がとられていました。十五年に間拓使が廃止され、札幌県下に移行してもこの機構は存続され、十八年には三つの役場がひとつになりました。


 その後、有珠郡下の一部は壮瞥村として分村しましたが、北海道一級町村制が施行された三十三年には、六ヵ村がひとつになって伊達村と改められました。その時の戸数は一千九百六十九戸、人口は九千九百二十人になっていました。


 この頃には、産業、経済にも明るいきざしが見えはじめていましたが、営農知識も乏しいなかで荒涼とした大地を切り開き、模範農村となるまでには、単に勉励と忍耐だけでは乗り越えられない人間同士のつながりがありました。


近代農耕の夜明け(農業編1)



苦渋の年月を過ごす


 明治三年四月、最初の移住が行われたころの紋鼈は見渡すかぎり原始林が広がり、雑草と熊笹が生い茂っていました。そんな原始林に手鋸やマサカりで立ち向かっては、根や雑草を焼き払う作業が何日も続き、しだいに耕地は広がっていきます。


 翌年は、邦成の家族を含む八百六十九人の大移住が行われました。しかし不運にも農・家具を積んだ船が遭難したことからその年の収穫は期待できなくなり、フキやワラビを採って飢えをしのいだといわれます。


 窮地に陥った邦成は開拓使に嘆願し、何とか米金を借り入れてその冬をのり越えることができました。


プラウ耕の先進地に


 明治五年、土地が開拓使に引き渡されると、北海道の農業は外人顧問の指導のもとで、開拓使十ヵ年計画が打ち出されます。邦成はいち早く開拓使に西洋農具とその技師の派遣を要請し、本道では初めて民間による西洋農具の使用が試みられました。


 やがて、プラウ耕の進展や農地の増大に伴い、自給作物から商品作物の栽培へと進みます。明治十年、札幌農学校教頭のクラーク博士は米国に帰る途中、伊達に立ち寄り、開墾状況を視察すると、欧米式の家畜導入による農業を勧めるとともに、砂糖需要も広く浸透し始めていることから、甜菜(ビート)の栽培をうながしました。


 そして明治十二年の暮れには、わが国で初めての国営による機械制製糖工場が伊達に建設されることになりました。


古来の技術も生かし


 伊達の農業の歩みのなかで忘れてはならないものに藍の生産と養蚕業があります。当時は四国の徳島を中心に栽培されていた藍の商品価値が高く、伊達での試作にも成功したことから舟岡町に製藍所が設けられ、明治十六年には、徳島県から入植した人たちの手で栽培や製造技術が改良されていきました。また、養蚕業についても、移住前の亘理での養蚕経験を生かして移住後も農家の副業として行われました。


 明治二十三年ころからは亜麻の生産も始まります。亜麻繊維は日清戦争の軍需物資としての需要もあって非常ないきおいで上昇を続けました。しかしそういった特用作物にも盛衰があり、その不安から次第に米作への関心も高まっていくことになります。


幾多の困難を越えて(農業編2)



米づくり広がる


 伊達市の稲作は、明治五年ころから始まります。開拓使も当初は稲作に消極的でしたが、明治二十五年ころ、道庁の稲作試験場で実験栽培が成功したころからしだいに稲作を奨励するようになっていきました。


 明治二十四年には四反歩余りだった伊達の水田面積も年々増えて、同三十三年には百三十九町九反歩、同四十四年には三百七十五町歩に達しています。


 当時の水田は東・西紋鼈、関内および長流の一部といったように比較的水に恵まれた一部の地帯に限られていました。しかし明治三十五年、伊達にも水利組合をつくろうという運動が起こり、翌年には地元有志の間で「長流用水土功組合」が設立されます。長流川から水を引く工事は明治四十年には完成し、長流を中心に伊達でも本格的な稲作が始まりました。


長い戦争の時代


 第一次世界大戦のころは参戦国の食料不足を補うために豆類やでん粉を輸出し戦時好況時代を迎えます。満州事変が起きる昭和六年ころにも、えん麦や亜麻などの軍需作物の増産が要求され、景気が上昇しました。


 しかし、第二次世界大戦が始まると農村の働き手も次々に兵隊としてとられ、加えて配給により、肥料の制限などで農業経営は行き詰まります。強制的な作付割当や厳しい供出に老幼婦女子の手ではどうにもできず減反をせまられました。


 そういった中で昭和二十年には歴史的な終戦を迎えることになります。


解放から自立へ


 戦後の農業で忘れてはならないことに農地改革があります。農地解放令は、封建的社会基盤である地主制度をなくし、農民の民主化をおし進めました。昭和二十五年からは経済も活気づき、伊達でも雑穀などを中心に酪農も取り入れて農業経営にもうるおいが見え始めました。しかし戦後の増産体制による地力の減退や昭和二十年代末の冷害凶作により、新たな対応策が望まれました。不利な立地条件にある黄金、稀府、関内、有珠の各地区は乳牛などの家畜を取り入れ本格的に酪農の道を歩み始めることになります。


 戦後の統制解除にともない麦や豆類に代わり甜菜やそ菜類が台頭し始めます。昭和三十八年以降は、そ菜類や飼料作物、水稲などで農業生産額が急激な伸びを見せました。


 現在の伊達市の農業は後継者問題や農産物の輸入といったいさまざまな問題を抱えています。産地間競争に打ち勝つ品質のよい伊達野菜銘柄の確立や消費者ニーズに応える商品価値の高い作物の生産など、足腰の強い農業経営をおし進めていくことが強く望まれています。


活気づく噴火湾(漁業編1)



群れをなす魚類

 開拓使が設置されるまで紋鼈では、アイヌの人と「海商」と呼ばれる本州商人との取り引きが、場所請負制という特有の制度下で行われてきました。開拓使の設置に伴い、この制度が廃止されると有珠郡下は邦成の支配地となり、同時に前浜は伊達移民の直営漁場となりました。


 明治三年、伊達邦成一族が入植しはじめた数年間は幾度か食糧難に見舞われました。これに反して噴火湾はあらゆる魚類の宝庫であり、水面が黒ずむほど魚がいたといわれます。


 邦成は、さっそくこれを一族の食糧にすることに気づき、家臣らに魚をとらせました。当初は漁師とは呼ばずに「魚とり人」と呼んでいましたが、ほとんどは漁業についての技術や知識も乏しく、網を使った漁法などは用いられていませんでした。


大漁旗を翻して

 やがて漁業者も明治十三年には二十二人。同十六年には百六十三人と三年間に七倍余にもなります。しかし、その多くは農業との兼業者であり漁獲高にもあまり増加がなく極めて不安定な状態にあったといわれます。その後、明治の後半にかけては漁具や漁法も発達し、マグロ、サケ、マスが多くとれました。


 明治末期から大正初期にかけては、伊達漁業の発展期で船も大型化し、漁業に従事する漁民も増加しました。しかしこれまでとれていたマグロもしだいに減少しはじめ、漁法も流し網や定置網などを用いて、主にサケ、マス、ニシン、イワシ、サバなどをとるようになりました。特にイワシ漁は、大正末期から定置網も発達し、飛躍的な増加を示しました。しかも昭和時代に入ってからの噴火湾は日本三大イワシ漁場のひとつに数えられるまでになります。


 浜にはいつも大漁旗を立てた漁船がひしめき、魚粕乾燥場に並ぶ煮釜からは連日黒煙があがり戦場さながらの活況でした。


養殖漁業めざし


 また、古くから開けていた有珠地区では、早い時期から多くの人が漁業に従事していたといわれます。ことに、水産養殖事業に関しては、大正五年ころから有珠湾内でノリとカキの養殖がはじまり、北海道の養殖漁業の先進地ともなっています。


 その後、養殖漁家の数も年々増え、昭和三十年代に入ってからは、道の水産試験場の指導を得て、コンブやワカメなどの養殖もはじまり、育てる漁業ヘと切り替えられました。


新たな資源を求めて(漁業編2)



イワシ漁の盛衰


 イワシ漁が伊達漁業に果たした役割には大きいものがあります。しかし、一時は最盛期にあった噴火湾沿岸のイワシ、ニシン漁も昭和十五年以降は、漁獲高もしだいに減り、衰退していきます。さらに戦争が終わるころには、食糧も不足して、それまで禁止していた底引網漁も行われるようになり、ますます漁場の荒廃をまねきました。


 昭和二十四年「漁業制度の改革」が行われました。それまでの漁場制度や漁業権の私有化は廃止され、漁業権は一括漁業協同組合が持つことになりました。


 その後、幾多の漁業構造改善事業が強力に推し進められましたが、海水の汚れなども問題になり、漁業資源はさらに減少の一途をたどりました。


 このようなことから、大きくとりあげられたのは、「育てる漁業」すなわち、「養殖漁業」の道でした。噴火湾は、内湾になっていて、波がしずかで寒暖流が交替しています。さらに河川の流入もあって、肥沃度に恵まれていることや、浅海部が広く日照も多いことなどから養殖漁業に適しています。


量から質の時代


 伊達の養殖漁業は有珠湾でノリやカキの養殖を始めたのが最初と言われます。養殖漁民も昭和二十四年には百三十人、同二十七年には二百四十人に達しています。しかし、ノリやカキについては生産高が振るわず減少してしまいました。


 現在ではホタテ貝やコンブの養殖を主として、サケの稚魚の放流なども行われています。特にホタテは、昭和四十一年から始められ、漁家の大部分がこれに従事するようになりました。とる漁業から育てる漁業へと時代も大きく変わり、さらに水産資源の確保に向かって多くの研究がされています。いま伊達市の水産業は、ホタテ貝養殖漁業を基幹にして、サケ、マツカワガレイ、ウニ、コンブの増殖など、複合型の経営を確立することをめざしています。


時代の流れ厳しく(工業編1)



農業とともに歩む


  伊達市の工業は農業と大きなかかわりをもって発展してきました。明治十二年、開拓使の助成を得て、大麻や菜種を原料にして製網や製油を行う永年社がつくられ、旧伊達邦成家臣がその運営にあたりました。しかし、経営難と技術不足などから明治十七年にはそれらの事業も終わっています。


 西洋農機具の先進地として知られていた伊達で本格的にプラウづくりを始めたのは鹿児島県出身の江田盛造でした。明治十七年、江田は炭素焼きによる質の高いプラウを完成させ、門弟たちにそれを引き継ぎます。その後、小西農機が設立され「伊達の赤プラウ」として一躍有名になりました。


 また、製糖業では砂糖の需要もあり、明治十三年にわが国で初の機械制甜菜製糖所(官立紋鼈製糖所)が今の錦町に建てられました。その後、外国人技師の指導を得て順調に製糖が行われていましたが、明治二十年にはデフレ政策として民間に貸し下げとなり、同二十九年には日清戦争による原料不足などから工場は閉鎖されてしまいました。


軸木製造業盛んに


 開拓当初の紋鼈は平地でも原始林に覆われていました。当初は、ただ切り倒し焼き払っていた樹木も紋鼈製糖所ができると、その動力燃料用の薪として利用されるようになりました。また、明治二十三年に志門気官林が解放されるころには木炭や鉄道枕木としての需要も増えてきました。


 こうした林業の活発化はマッチ需要の増加とも相まって、マッチの軸木工場を進出させました。明治二十四年、長流村(現在の長和)に最初の軸木工場がつくられると同二十八年までに合わせて十一の製軸所がつくられました。これらの軸木は長流川上流でとれる白楊樹や菩提樹などを原料にしていましたが、森林資源の不足が進んだことから明治末期には一部の業者を除いてやめてしまいました。


亜麻の需要高まる

 明治二十年代後半からは亜麻繊維の需要が年々高まりをみせ、製麻業が進展しました。明治二十九年には近江麻糸紡績㈱が伊達で生産を行っています。その後明治三十一年に日本繊糸会社が進出しましたが、同三十六年に、それぞれの会社は合併を行い日本製麻㈱と名前を変えました。


 さらに、明治四十年からは北海道製麻と合併し帝国繊維㈱伊達亜麻工場となって亜麻繊維の生産が行われました。しかし合成繊維や化学繊維の発達により、昭和三十九年に工場は閉鎖されました。


経済復興の光と影(工業編2)



中小工業の隆盛


 明治二十年代までは、農機具、製網、製油、軸木と相次いで行われてきた伊達の工業も、同三十年代に入り多様化してきます。明治三十三年、増岡重平は大町において醤油醸造を、翌三十四年六月には浅見為三郎が味噌醸造をそれぞれ始めました。その後、染織業、こうじの製造、製粉業なども盛んになり、明治四十一年には、元岡嘉藤太ら有志が紋鼈酒造合資会社を設立。本格的な清酒醸造が行われました。


 一方、明治後半には有珠で、コンブを原料に消毒・止血用に使うヨードの製造を開始。大正三年「有珠ヨード製造株式会社」が組織され副産物の塩化加里も生産されました。しかし、各地でヨード製造業者が続出し、原料の調達もむずかしくなったことから、大正七年には解散しています。


食品加工が浮上


 戦前における伊達の工業生産は、最盛期でも産業総生産額の十五%内外にとどまり、なかでも亜麻繊維の製造が大半を占めていました。戦時体制へ移行すると、軍需産業以外の工業生産は停滞や縮小を余儀なくされ、終戦まもないころも経済的混迷のなかで、工業生産額は伸び悩みました。


 その後、戦後の食糧難、物資不足といった世相を反映して、昭和二十四年ころから食品加工業や繊維工業がいち早く勢いをもり返し同二十七年には、両者で生産総額の六十五%を占めるまでになりました。昭和三十年代からは台湾製糖㈱やクレードル興農㈱、北海道砂鉄鋼業㈱の各工場の操業が開始。工業生産はさらに飛躍的に伸びました。


鉄冷えの時代へ


 昭和三十二年。神武景気もピークを迎え、鉄鋼、造船といった産業が勢いをみせてきます。伊達においても昭和三十三年に北海道砂鉄鋼業㈱伊達工場が操業を開始しました。しかし、貿易の自由化により、海外から安い銑鉄が入るようになり、昭和四十年にはやむなく操業を中止してしまいました。


 また、その後は月に四百五十トンのフェロニッケル生産を目標にして志村化工㈱伊達工場ができましたが同五十八年には、やはり採算が合わないことから工場が閉鎖されました。


 こうした全国的な産業構造の変化により、工業も新たな時代を迎えるようになりました。伊達市においても、伝統的な家内工業などが再び注目され始めています。


物流の道開かれる(商業編1)



武家商法の難しさ


 明治以前の紋鼈での商業形態はすベて場所請負人によって行われていました。 明治時代に入り、伊達家主従の移住開拓に伴い必要物資はその後の移住者に託すなど、何とか国元から取り寄せて間に合わせていました。


 やがて、それも不自由なことから、明治四年ころには移住した人の中にも雑貨商を開業する人も現れ始め、本州から積極的に必要物資を取り寄せて農家に供給をしました。しかし、何分にも元は武士であり商才を兼ねることはなかなか因難なことから、その後廃業や倒産が相次いだといわれます。


商人の移住始まる


 住民の請願がみのって明治九年、東浜にふ頭がつくられると、函館との航路も開かれるようになり、物資の交流は商業に活気をもたらせました。明治十二年、藤森峰太郎が鋸(のこ)の行商で入ったのを始めとして、同十三年には埼玉県から浅見四郎佐衛門が移住して、藍の栽培販売から、味噌醸造販売業を始めました。さらに、明治二十年代の後半からは商業者の移住もふえ、呉服商や雑貨商、薬種商、金物店、旅館業などを営むようになりました。こうして商業者が移住してくると、同時に農地開拓も進展し、雑穀などの生産も年々増加するようになりました。特に噴火湾汽船㈱が設立された明治三十一年から、伊達は海陸の物資集散地としての地位を確保し、商業者の集まりも室蘭をしのぐほどになりました。


 明治四十年には二百六十六店に達した商店や営業所は、錦町や網代町、末永町の一部を中心に市街を形成していきました。ことにこの時代は商人と農民との関係が深く当時の取り引きは通い帳によって行われ、その支払いはお盆と暮れの年二回が通例となっていました。


商店街に灯が点る


 大正二年一月に待望の市街電話が開設されました。同年四年には北海道銀行室蘭支店紋鼈派出所が営業を開始。金融のみちが開かれたことにより商業にも発展が期待され、翌年には営業者も三百四十五軒を数えています。このころから雑穀の仲買人という商人も生まれ農民も現金で取り引きを行うようになりました。


 やがて大正六年に入り市街に電灯が点ると、商店街はまばゆいばかりの照明にてらされ、網代町の裏小路には料理店や飲食店もできてにぎわいました。しかしこの一時的な好況も第一次世界大戦の影響によるもので、大正七年の終戦とともに農産物の値下がりに始まり商業も不況時代に入りました。


激動の時代を経て(商業編2)



不況の波のなかで

 第一次世界大戦が終了する大正七年からは、不況の波は伊達にも押し寄せてきました。これに加えて大正十一年には農産物の不良、翌十二年には関東大震災が起こり、金融の引き締めが行われたことから取引がうまくいかず、商業も一段と不振にさらされました。


 大正十四年。多年の要望であった長輪線(現在の室蘭本線)のうち輪西(室蘭)-伊達間が開通し、さらにその建設工事は長万部に向かって続行され活気を見せていました。そのため不況にあえぐ他市町村から多くの人が伊達に移り住むようになり、このことが人口の増加と商業者の増加につながっています。


 大正十三年には人口一万二千九百八十一人。世帯数二千二百二十八戸であったのが翌十四年には一万三千七百四十八人。二千三百九十六戸と増加し、同年八月にはついに町制が施行され伊達町となりました。


統制と配給の時代

 しかし、昭和期に入ると不況にあおりをかけるように、昭和四年、世界恐慌が起こり、不景気に拍車がかかりました。農産物を主体とする商品が下落したことは、原料である農産物の下落につながり、購買力の減退となって不況は商店街にもはねかえりました。 昭和十三年には国家総動員法が発動され、国民生活の消費物資も生産が抑えられて品不足がおこり、戦前のおよそ五割近い物価の値上がりを示しました。同十五年には、生活の必需品も配給制がとられるようになり、そのために配給店だけは何とか生き残ることができましたが、大半の一般小売店は廃業せざるを得なくなりました。


 やがて終戦を迎えても統制経済はただちに解かれずインフレが進行しました。品不足と物価高が国民生活をおびやかすとともに、全国的にやみ物資が出回りはじめ、伊達紋別駅前にもやみ市ができました。


魅力ある商店街へ

 昭和二十四年から二十六年にかけて日用品の配給制が廃止され、雑穀などの農産物の統制が撤廃されました。こうして自由販売の時代を迎え、商店街も再び賑わいを見せるようになりました。


 昭和二十五年、商工会議所法が制定されると、それまでの商工経済会も伊達商工会議所として生まれ変わり、戦後の新しい商業経営の研究にあたりました。


 近年、大型店の進出や都市計画街路の整備などにより伊達市の商店街も、急激な変ぼうを見せています。また、消費者の傾向も多様化してきており、西胆振の広域商業圏をかかえる伊達市では交通体系の発達に伴う他都市への流出を防ぐためにも、魅力ある商店街づくりが望まれています。


就学の機会ひろがる(教育編1)



有珠郷学校設置に


 日本の教育は明治に入り欧米に目が向けられ、明治四年には文部省を設置。翌五年からは「学制」の公布とともに近代教育の理念が明らかにされます。


 明治三年、紋鼈の開拓に入った伊達邦成主従の多くは農業の経験を持っていないため、思うように開墾も進まず、田村顕允は開拓民の動揺をおさえるためにいろいろな方法を取り入れました。そのひとつが教育を取り入れたことです。


 明治五年、邦成は開拓判官岩村通俊に郷学校の設立を申請。同年八月には旭ケ岡(現在の舟岡町)に待望の「有珠郷学校」が建てられ男女生徒百六十余人が勉学に励みました。


高等教育を願って


 明治十二年、従来の学制に代わって「教育令」が公布され、これまでの中央集権が改められ教育の権限が地方に任せられるようになりました。明治十五年、開拓使が廃止され北海道に札幌、根室、函館の三県が置かれるようになると、有珠郷学校も幾度か名称が変えられて「紋鼈小学校」と呼ばれるようになりました。


 開拓の進展に伴って入植者も増加し、明治十四年には長和、稀府に、同十五年には関内にそれぞれ紋鼈小学校の分校が開校され、さらに同十七年には有珠小学校、同十九年には浜町小学校が今の旭町に開校されました。紋鼈小学校には初等科と中等科が、その他の分校や小学校には初等科のみが置かれ、地域における教育の普及に大きな役割を果たしました。


 やがて三県が廃止され北海道庁が置かれると、札幌、函館、小樽、松前などを除いた小学校は簡易小学校となり、紋鼈小学校も「簡易小学校」の扱いとなりました。子弟教育に熟心な伊達の父兄たちはそれに反対し明治二十二年、紋鼈小学校のそばに「私立蛍雪学校」を併設しました。


国家統制の時代へ


 大日本帝国憲法の発布についで明治二十三年に「教育勅語」が発布されたことにより教育の国家統制は強化され、高等小学校の設置が奨励されるようになりました。私立蛍雪学校も廃止され、紋鼈小学校も紋鼈尋常高等小学校となりました。


 開拓の進展と同時に富国強兵思想が広がりはじめると教育ヘの関心は逐次高まりをみせました。大正十一年には村立伊達女子職業学校が、同十四年には男子の農業、商業の実業教育を目的とした町立伊達実業専修学校が開校し、大正デモクラシーの余波を受けながら伊達の教育体制は大きく充実していきました。


まちづくりは人づくり(教育編2)



軍事教練盛んに


 第一次世界大戦後の日本は、世界恐慌や政治構造の変化、大衆運動の高まりのなかで大きく揺れ動いていました。大正十五年、時の陸相宇垣一成は「まず、良民を作れ、それが良兵を得るゆえんである」とし、いわゆる職業軍人の削減をする一方で、十六歳から二十歳までの青少年に軍事教練を課すベく全国の小学校に青年訓練所を併置しました。


 その後、昭和十年には実業専修学校と青年訓練所が統合、青年学校と改称されました。昭和十六年、時代は戦時体制に移行し、国民学校令の発布により、各小学校は国民学校に改称。伊達実業専修学校は廃校となりました。教育も戦争一色に塗りつぶされていきましたが、そうしたなかでも、高等教育を望む住民の要望がみのり、町立伊達中学校が国民学校を仮校舎に開設。昭和十八年には竹原町(現伊達高校)に新校舎が完成しました。


民主教育始まる

 昭和二十年、終戦と同時に連合軍総指令部は軍国主義教育を排除し、新しい民主主義教育を行うよう日本政府に指示します。やがて誕生した「教育基本法」は日本国憲法の前文の精神を受け継ぐもので、戦後日本の民主教育制度の根幹をなします。


 戦後における伊達の教育も町立伊達中学校が昭和二十年には道立に、同二十三年には北海道伊達高等学校となり、昭和二十四年からは新制度により男女共学として今日に至っています。また、国民学校も昭和二十二年には再び小学校と改称され、男女共学の新制中学伊達中学校が伊達小学校の一部を仮校舎として開設。翌年には長和、有珠、関内、達南と新設をみました。しかし、戦争直後で財政的にもひっ迫した時代背景のもとでの六・三・三制度の実施は実に大変な道のりといえました。また、政府は教育の自主性確立と地方分権化を目的に、昭和二十三年に教育委員会法を公布。伊達でも同二十七年には公選による委員が選ばれ、伊達町教育委員会が設置されました。


 その後、昭和三十一年には地方教育行政の組織及び運営に関する法律に改められ、教育委員の公選は廃止。首長が議会の同意を得て任命するところとなり今日に至っています。


生涯学習の時代


 現在、伊達市においては伊達赤十字看護専門学校、伊達高等養護学校、北海道伊達緑丘高等学校が相次いで開設され、教育に熱心なまちとして内外の評価を得るまでになりました。今後は、高齢化、情報化、国際化といった波のなかで生涯教育・生涯学習がひとつの課題になっています。


城下町の名ごり今も(道路編)



有珠場所へ続く道


 入植前は、有珠場所が交易の中心であったことから、従来のけもの道が踏みわけられて道路がつくられていきました。黄金方面は茶呑場(いまの消防署黄金支署のあたり)から海岸に出て牛舎川を渡り平地へ、そして谷藤川から再び海岸沿いに舟岡に出て、長流川を船で渡り若生を越えて有珠へと至る道が開かれていました。また、長万部~有珠を結ぶ礼文華山道は寛政十二年(一八〇〇年)、まだえぞ地が徳川幕府の直轄であったころに完成しました。


 明治二年八月、太政官発令により伊達邦成公に有珠一郡の支配が命じられると、現在の梅本町に支配所が設けられ、まず臨時の町名が設定されました。支配所前を本丁、裏を北小路、モンベツ川沿いに西小路、南小路とし、その他の地に表丁、裏丁が定められました。


 明治四年、第三回の移住により、幹線道路の築造は一気に進められました。また、この年は八百人にもおよぶ大挙移住により、弄月、萩原、舟岡、松ヶ枝、北稀府、竹原と入植地は一挙に広がり、明治五年には今日の幹線道路となっている大部分がつくられ始めます。そして、明治十三年官営紋鼈製糖所ができると甜菜(ビート)を運搬するために稀府、関内、長和などを中心に道路の新設や拡幅が一段と進み、この期に伊達の道路網の骨格がほぼ整備されることになりました。


町名の由来歌碑に

 伊達の街並みをみると、その道路は自然の地形に合わせながらも、迷路のようになっていることに気付きます。これは築城法に則った城下町のつくり方で、開拓使の指導を得ながら進めた札幌とは異なり、士族開拓のまちの特殊性が出ているといえます。ただ、稀府、関内地区は比較的整形化した道路網となっており、これは同地区の入植が明治十三年から十四年にかけて行われ、開拓使の指導もようやくゆき届いてきたことなどによるものです。


 また、町名(字名)も他の市町村とは違って、優雅な名前がつけられています。旭ヶ岡、網代町、青柳町、菖蒲小路、泉小路、乾小路、岩ヶ根町、梅本町、清住町、桔梗小路、桜小路、末永町、巽小路、竹原町、西小路、浜町、萩原町、松ヶ枝町、南小路、弄月町の二十ヵ所には、それぞれの由来があり、明治四年に移住した、歌人の佐藤脩亮が「街に名づくる言の葉」として、地名にちなんだ和歌二十首を詠んでいます。現在ではその町名の半数以上は変わってしまいましたが、昭和五十七年から伊達郷土史研究会の手により、それぞれの地に佐藤脩亮の歌碑を建立する作業が進められ、現在、二十首十八基の歌碑が建立されています。


海陸輸送の中心地に(交通編)



噴火湾汽船の活躍


 明治初期の開拓まもないころ、荷物は馬の背中に荷ぐらをつけて運ばれていました。開拓も進み、雑穀や甜菜(ビート)などの出荷が多くなると荷車や荷馬車のほか、冬には馬そりが使われるようになりました。


 また、ほかの町との交易には古くから船が最も多く使われていて、開拓前は、天然の良港といわれる有珠湾が利用されていました。明治時代に入り、帆船から汽船の時代になるとますます海運業は活発になり、函館や室蘭方面に航路が開かれていきました。特に明治三十一年、まだ鉄道も通じていない伊達に噴火湾汽船株式会社が設立されると、海運業は運輸業の中心的存在となり、初期の持ち船、胆洋丸(一四二トン)は、伊達・虻田・長万部・森を往復して農産物や海産物の輸送にあたりました。その後海運業は好況の波にのり、大正五年、会社の持ち船は六隻を数えるまでに発展しました。しかし、鉄道が敷かれ、昭和三年に長輪線が開通するとその価値も薄れ噴火湾汽船株式会社は、ついに解散の運命をたどることになりました。


鉄路の行方厳しく

 長輪線は、長万部と輪西(現在の室蘭)を結ぶ鉄道として大正八年に着手されました。同十四年に、まず輪西~伊達間が開通したあと、当時では最大の難関であった礼文華峠をとおり、伊達~静狩間が開通したのは昭和三年九月のことです。また、長輪線の全線開通と前後して、伊達~定山渓~札幌を結ぶ官設線計画がもちあがり、国への積極的な陳情も行われましたが、緊縮財政のもとで計画は取りやめとなりました。それでも、あきらめきれない伊達の早瀬吉松は、自らの財産と栗林の資本を導入して私設胆振縦貫鉄道敷設に踏み切り、昭和十六年に伊達~喜茂別間の開通をみました。


 昭和十九年、鉄道省にゆずり渡され国鉄胆振線となった鉄道は、その後、倶知安まで延長され鉱産資源、農林産資源の輪送にあたりました。しかし西胆振の動脈であった胆振線も自動車の普及などにより乗客も減りはじめ、地域の人たちに惜しまれながら昭和六十一年に廃止され、現在では、道南バスが胆振線の代替輸送を行っています。


 自動車の出現は、大正末期にさかのぼります。昭和の初め、伊達乗合自動車商会や千田自動車といった会社が乗客を乗せて壮瞥、虻田、豊浦などを走っていましたが、昭和四年に洞爺湖乗合自動車となり、昭和十八年四月に道南バス株式会社に統合されました。また、国鉄バス(現在のJR北海道バス)が伊達で運転されるようになったのは、昭和三十年八月のことです。 今では、モータリゼーションの進展に伴い、高速道路の開通など、高速交通体系も整備されるようになりました。


故郷への想い熱く(伝統文化編)



戦国絵巻ふたたび

 昭和四十八年に始まった伊達武者まつり。その武者まつりの中心といえばやはり武者行列。その歴史は古く、明治末までは炮烙(ほうろく)合戦と呼ばれていました。炮烙とは物をいるために用いた素焼きの土鍋のことで当時は、それを騎馬武者の頭に乗せ、棒や竹刀で打ち合って、割った数を競ったといわれています。


 伊達が札幌県下に置かれていた明治十七年、横山権左ヱ門、三浦直一郎、黒野時中、斉藤格の各氏は、県令である調所広丈(ずしょ・よしたけ)氏に炮烙合戦を行うので、甲冑の着用と帯刀(刀を腰にさすこと)について許可を願うように申請しました。本来なら許されないような、こうした願いが許可された背景には、この願いが旧武士団である開拓農民の望郷の念の表れであり、旧式の武具をもっての反乱はもはや不可能であること。また、有珠郡の開拓状況はこのころ好成績を上げており、炮烙合戦を許可することにより、開拓の士気がより一層高まると判断したためと考えられます。


 戦国時代において、炮烙合戦は炮烙訓練と呼ばれ、実戦に備えて実際に行われていたと伝えられています。炮烙合戦も明治三十年ころまで行われ、以後、武者行列として、鹿島神社(現在の伊達神社)の祭典に登場するようになりました。現在では、馬の数や乗る人も減ってきているだけに、騎馬武者保存会が設立されるなど、その保存策が課題となっています。


豊作と豊漁を願い


 古くから、祭典に欠かせないものに仙台神楽があります。現在、伊達市立関内中学校の生徒によって伝承されている郷土芸能「仙台神楽」は、旧伊達家領地の宮城県亘理地方では「作物の豊作・海の豊漁を願う神事芸」として行われていました。今日では、亘理町でも途絶えており、伊達で奇跡的に復活を見たのは、昭和49年頃のことです。開拓の入植とともに、この仙台神楽を伝えたのは平順次郎(亘理領神楽師匠)、小川宇八、斎藤長四郎の各氏で、明治五年に鹿島神社へ奉納したのが最初の伝承と言われています。


 以後、明治三十六年には西浜の川口神社に神楽が奉納され、明治の末には、関内の喜門別において斎藤長四郎氏の指導により、喜門別の山神様に奉納されたと言われています。その後、斎藤氏の転出により志門気町の笠原久蔵氏が喜門別の青年たちの応援を得て練習を行っていましたが、太平洋戦争が始まる昭和十六年ころから伝承者も減り、途絶えてしまいました。しかし、伊達町開基百年を記念し復活すべきという多くの人の呼びかけが実り、昭和四十四年に仙台神楽は復活しました。


 現在、伊達市にはこのほかに、さんさ時雨や法螺(ほら)貝の保存会も設立し、有形、無形の文化財を後世に伝えていこうと研さんが積まれています。


民族のかべ厚く(アイヌ文化編1)



住みよさ最古から


 伊達市は、北海道のなかでも気候が温暖なことから最古から人が住んでいたといわれ、北黄金貝塚や若生貝塚、有珠モシリ遺跡など、多くの遺跡や貝塚があります。開拓以前の紋鼈の地にも古くから有珠を中心にアイヌの人たちが住んでおり、明治の初めには、およそ八十戸の集落をなしていたといわれています。


 当時のアイヌの人たちはおもに、狩猟や漁労、植物採取によって生活をささえていました。また、衣服はオヒョウダモやバッコヤナギといった木の皮をはぎ、その皮から取った繊維で織ったアッシ(着物)を着ていました。冬になると寒さをしのぐためにアッシ(着物)の裏に犬、鹿、うさぎなどの皮をぬいつけたり、熊や鹿などの皮で袖なしをつくって着ていました。また、履物は、シャケ(鮭)の皮をはいで乾かし、糸で縫い合わせた「ケリ」と呼ぶ長靴やげたなどをはいて生活をしていました。


和人との争い続く


 南方から日本文化がしだいに北上しつつあった十五世紀のなかばには、すでに和人の豪族は渡島半島の一角を占拠し、住民を支配していました。したがって、風俗習慣が異なり自由と平和を愛してきたアイヌ民族とは必然的に衝突し、長禄元年(一四五七年)には、東部の酋長コシャマインの乱が、のちに松前藩が支配するようになった、寛文九年(一六六九年)にもシャクシャインの乱といった、大きな争いが起きました。


 徳川幕府からえぞ地全域の交易権を認められた松前藩は、交易によって藩の財政を確立していました。有珠場所もそうした交易の場所として、慶長年間(一五九六~一六一四年)に開かれたといわれています。松前藩とアイヌの人たちの交易の場としてできた有珠場所でしたが、その後松前藩は運上金(税金)を取って、交易を商人に請け負わせるようになりました。これが場所請負制度とよばれるものです。やがて、運上金が増額されるようになると、そのしわ寄せはアイヌの人たちにかぶさり、和人による酷使や虐待が行われました。


 そうしたアイヌの人たちの心の支えになったものに有珠善光寺があります。有珠善光寺の起源も正確にはわかっていませんが、今からおよそ千数百年前に慈覚大師と呼ばれる僧侶が、蝦夷地に渡り、大臼山(有珠山)で修行ののちにお堂を建立し阿弥陀如来像を本尊として安置したのが始まりといわれています。さきに述ベたコシャマインの乱で一度は破壊された善光寺のお堂も、慶長十八年(一六一三年)に松前慶広の手で再建され、文化元年(一八○四年)には蝦夷官寺として高い格式を持つようになりました。 そして、歴代の住職以外にも、数多くの名僧が訪れて布教活動を行い、和人とアイヌの人たちとの、民族融合のうえに、大きな役割を果たしてきました。


同胞に捧げた生涯(アイヌ文化編2)



邦成ら歓迎受ける

 明治三年(一八七〇年)三月二十九日。第一回目の移住団として、伊達邦成以下、家臣、大工、人夫など二百五十人を乗せた政府の汽船長鯨丸は、松島湾を出港し室蘭をめざしました。


 船は無事航海をつづけ、室蘭に入港したのは、四月六日のことです。まだ雪におおわれた地で邦成一行を出迎えたのは、熊の毛皮の胴着に山刀をさしたアイヌの人たちでした。一行は、たいへん驚きましたが、アイヌの人たちは荷物を運んでくれるなど、非常に親切でした。そして、一行が有珠に到着して宿泊するときに、有珠に住む人たちは、白米のご飯と有珠湾でとれたアサリのみそ汁で歓迎したといわれています。


 邦成は支配所を設けると開拓民に対して常に信義、礼儀、はじを知ることをもって生活し、アイヌの人たちと平和なつき合いをするように命じました。そしてその精神は伊達のまちづくりのうえで、現在も生き続けています。


有珠に響く愛の鐘


 アイヌ民族史のなかで、忘れてはならない人にジョン・バチラー博士がいます。アイヌの父と呼ばれた博士は、一八五四年にイギリスで生まれ、ロンドン神学校を卒業後、来日して本道に渡り、聖書をアイヌ語に訳すなど、多くの業績を残し、のちに神学博士の称号を授けられました。


 博士が伝道師として日本へ来たのは、明治十年(一八七七年)三月で、二十三歳の若さのときでした。来日後、博士はアイヌ民族の研究とキリスト教の布教をかねて明治十一年(一八七八年)に初めて有珠を訪れました。最初に博士を見て驚いたアイヌの人たちも、やさしくみんなにとけこもうとするバチラー博士の姿を見て、しだいに親しみを感じるようになりました。 翌年、博士は有珠を離れていますが、その後、何回か有珠を訪れ、アイヌの人たちと接触を深めています。


 やがて、この熱心な博士をしたって、キリスト教の信者もふえました。そして、そのなかには、博士の遺志を継ぎ、聖公会伝道婦となったバチラー八重子もいました。八重子は、明治十七年、有珠のアイヌコタンで、向井富蔵の次女として生まれました。十一歳で父を亡くした八重子は、子どものいなかったバチラー夫妻の養女として迎えられ、博士夫婦とイギリスに渡ります。


 そして、帰国後は郷土の有珠で、キリスト教の布教につとめました。昭和十二年、多くの信者の協力で、有珠の小高い丘にバチラー夫妻記念堂が建てられ、八重子の手で有珠のまちに愛の鐘が鳴らされるようになりました。 貧困のなかにあっても、キリスト教徒として、布教につとめ、同胞のためにその生涯を捧げたバチラー八重子は、昭和三十七年四月享年七十八歳でこの世を去りました。


有珠山は生きている(災害編1)


 昭和五十二年八月、三十二年間の沈黙を破って、有珠山が大噴火したことを、まだ昨日のことのようにおぼえているかたも少なくないのではないでしょうか。次に災害編1として、伊達の災害のなかで、切っても切れない縁がある、有珠山噴火の歴史を探ってみましょう。


記録では八回噴火

 いまから、およそ一万年前に活動を始めたといわれる有珠山は、那須火山帯北帯に属し、現在では、火山の一生のうえで、末期を迎えているといわれます。 道内では、駒ケ岳、樽前山、十勝岳などとともに、しばしば噴火を繰り返してきましたが、有珠山噴火の記録からみれば、短くて三十年、長くて百年周期で活動をしています。


 記録に残る有珠山の噴火として、もっとも古いのは松前藩の「新羅の記録」にある、慶長十六年(一六一一年)の噴火といわれていますが、詳しい記録は残されていません。その後も、寛文三年(一六六三年)、明和五年(一七六八年)、文政五年(一八二二年)と有珠山は噴火を繰り返しました。なかでも文政五年の噴火の記録によれば、大泥流(高温であったことから熱雲と思われる)が南屏風山を越えてアプタコタン(現在の南有珠付近)へ押し出し、人家は残らず焼失して多数の死焼者を出したといわれています。また、この噴火で善光寺の貴重を宝物や記録も多数失いました。


 その次の噴火は、嘉永六年(一八五三年)のことでこのときの噴火により、大有珠岳が誕生したといわれています。また、このときにも熱雲と思われる高温の噴煙が東に向かって激しく吹き出しました。 明治時代に入ると、明治四十三年(一九一〇年)の七月二十五日に噴火が起きました。午後十時頃、北西の金比羅山から噴火。そして、その後の地盤隆起で、明治新山(四十三山)ができました。


 その次に噴火がやってきたのは、戦時中の、昭和十九年(一九四四年)六月のことでした。昭和十八年の暮れから鳴動と激震を開始した有珠山麓一帯は、明けて一月五日に長流川沿いに大亀裂を生じさせました。そして、三月ころから有珠山の東側で始まった地盤の隆起活動は、昭和二十年の九月まで続き、高さ四〇七メートルという昭和新山を完成させました。



噴火が教えるもの

 有珠山はこうして、過去に何回となく噴火を繰り返してきました。昭和五十二年の噴火からすでに二十年。将来、ふただび噴火が起きないという保証はありません。そして、その予知も非常に難しいとさえいわれています。天災を人災にしないために、日ごろの安全対策を万全に行うことも必要です。しかし、同時に、大自然の歴史というものも謙虚に受け止めていかなければならないでしょう。


復旧を繰り返し(災害編2)



風雨とのたたかい

 伊達市は、道内でも気候が温暖なことから、雪による被害の記録は少なく、むしろ台風や大雨による災害の記録が数多く残されています。そして、それらの暴風雨は、そのたびに農作物や道路、橋梁に大きな被害を与えてきました。


 明治四十一年(一九O八年)に長流川が氾濫したときには、上流から木材が数十万本も流れ、増水はおよそ三・三メートルに達しました。また、昭和二十九年(一九五四年)九月二十六日、本道を襲った十五号台風(洞爺丸台風)は、平均風速が二十三・八メートルといわれ、伊達の市街のいたるところで電線が切れ、屋根の柾やトタンが舞い飛びました。全壊の住宅が五十棟も出た、このときの被害総額は二億五千万円に達しました。


 やがて、こうした暴風雨による被害も家屋や農作物にとどまらず、昭和四十一年(一九六六年)にはついに犠牲者を出しました。この年の八月、伊達を襲った集中豪雨は、総降雨量が二百ミリから三百ミリという激しいもので、いたるところで土砂崩れが起き、死者四人、重軽傷者三人を出すという大惨事になりました。


 その後、何回か、台風や低気圧が伊達を襲い、そのつど農作物に大きな被害を与えてきました。比較的記憶に新しい、昭和五十六年八月の十五号台風は、ふたたび長流川を氾濫させ、増水は館山下町、山下町に流れこみました。そして、そのときの被害は床上浸水三百五十一世帯。被害総額は、三十二億一千七百六十八万円にのぼりました。


災害を教訓にして


 風水害以外の災害として珍しいものに、明治十三年八月に伊達を襲った「バッタの大群」があります。十勝で発生し日高一帯を襲ったバッタの大群は、勇払で二つに分かれ、一方は札幌へ、残りは伊達の方ヘやってきました。みるみるうちに空は暗くなり、畑の緑もほとんどなくなってしまいました。ときの農商務省や開拓使は巨額の資金を交付し、急いで防除にあたらせました。そして、そのときに焼き殺したバッタを集めて、供養をしたバッタ塚が現在でも幌美内に残されています。


 このほかに、伊達では、過去三回大火が起こりました。古くは、明治四十年に百四十九戸が、昭和七年には、三十二戸が焼失する大火が起きています。昭和二年五月に裏浜(錦町)から出火した火は、山下町まで及び、百十五戸を焼失しました。そしてそのときに、馬喰(ばくろう)が引き連れていた大量の馬が焼死して、後にその霊を慰めるために錦町に馬魂碑が建立されました。


 よく、災害は忘れたころにやってくるといわれます。今後、いつ私たちがそうした被害に出合っても、最小限に食い止めるために、こうした過去の災害を教訓にまちづくりを行っていかなければならないでしょう。


北の大地を夢見て(人物編1・田村顕允)



 戊辰(ぼしん)戦争に敗れたのち、北海道開拓に活路を求めた伊達邦成と家臣二千八百余人。その邦成の相談役として開拓に偉大な指導力を発揮した田村顕允(たむら・あきまさ)とは、いったいどんな人物だったのか。次に人物編の最初に田村顕允の人間像に迫ってみましょう。


武芸の道に優れる


 田村顕允は天保三年(一八三二年)十一月、磐城国亘理郡小堤村で、顕信の第四子として生まれました。平安時代の征夷大将軍、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を祖先とする福島の名家田村家は、代々伊達家の家老職にありました。顕允は、幼名を文吉といい、大きくなってからは祖先の出身地である福島県田村郡常盤郷にちなんで、常盤新九郎顕允と名乗っていました。「田村」姓にもどり、田村新九郎顕允と名乗るようになったのは、北海道移住が決まった明治二年のことです。


 顕允には兄弟がたくさんいましたが、その多くは若死にし、顕允はわずか七歳で家を継ぐ決意をしなければなりませんでした。顕允の少年時代は、おとなしい性格でしたが、藩の学校である養賢堂で文武を学び、十五歳のころには、剣術や槍術、兵法など、武芸の達人といわれていました。


 そのかいあって、二十六歳のときに、亘理領主から特別に選ばれて江戸へ上がり、江戸幕府の学校「昌平黌(しょうへいこう)」で数年間勉強を積みました。顕允が蝦夷地のことを知ったのは、十四歳のときで、亘理大雄寺の仏母和尚との出会いからでした。そして和尚から蝦夷地のことを聞き、若い顕允の胸中には蝦夷地開拓の夢が芽生え始めました。


顕允の熱意実って

 慶応三年(一八六七年)三百年間続いた江戸幕府は朝廷に大政を奉還、明治新政府が誕生しました。戊辰戦争に敗れた仙台藩や亘理伊達家は、顕允の努力により滅亡を防ぐことはできましたが、領地は減封され、このまま亘理に残れば、家臣は分散し、流民にならざるを得ない状況へと追い込まれました。


 顕允が邦成に蝦夷地開拓を進言したのは、そんなときで、顕允の熱心なことばに打たれた邦成は、全財産を投げうって蝦夷地開拓を決意しました。ときに邦成が二十七歳、顕允が三十六歳のときのことです。


 邦成から命を受けて本道開拓について綿密な計画を立てた顕允は、再三に渡りときの政府に請願し、明治二年八月に開拓の許可が出ました。そして、その開拓の基本となったのが「人の和」と「先取の精神」です。有珠郷学校の設立や西洋式農機具の導入、官立紋鼈製糖所の設立は、こうした顕允の努力によって成し遂げられていきました。


 明治三十四年には第一回道議会議員として選出され本道の発展にも寄与した田村顕允でしたが、大正二年十一月、開拓民にしたわれながら享年八十二歳でこの世を去りました。晩年の歌に「移し殖えしこの民草の霜垣もむすび得ぬまに年はくれぬる」とあり、老いてもまだ開拓精神が旺盛であった顕允の心意気をうかがわせています。


辛苦もいとわず(人物編2・貞操院保子)



三十ニ歳で仏門に

 「開拓民の母」として知られる貞操院保子(ていそういん・やすこ)は、文政六年(一八二一ニ年)六月九日二十七代仙台藩主伊達齊義(だて・なりよし)の長女として仙台に生まれました。佑姫と呼ばれ仙台の人たちにたいへん幕われていた保子は、幼いときから学問をはじめとして女性としての心得や芸ごとは、ほとんど身につけていたといわれます。分家である亘理伊達家に嫁いだのは、弘化元年(一八四四年)保子が十七歳のときで、十四代伊達邦実公との間に五男二女の子どもがありました。しかし、不幸にもつざつぎに子どもらをなくし、残されたのは二女の亀久子(のちの豊子)だけでした。そして、安政六年(一八五九年)には、邦実公が三十七歳で他界。保子は三十二歳の若さで黒髪をおろして仏門に入り、名前も「貞操院」と改めました。


家臣とともに渡道


 亘理伊達家の跡取りに岩出山伊達家の二男伊達邦成(当時十九歳)を養子として迎え、亘理伊達家も安泰となりました。しかし、時代はやがて明治維新へ、仙台藩のなかも勤皇か佐幕かと揺れ動きます。


 明治元年、戊辰戦争が終結すると、亘理伊達家は賊軍として禄高も減らされました。この年の十二月に豊子と正式に結婚した邦成は、私財を投げ売っての北海道移住を決意しました。そして、養母を北海道につれていくことを忍びがたく思った邦成は、東京の兄のところに身を寄せるようにすすめました。しかし、保子は「家臣がみな北海道に必死の覚悟で渡っていくのに、私一人が安閑として東京の兄のところにいられようか」と、何としても北海道へ渡る決意は曲げません。そして、その決意を次のような歌に詠んでいます。「すめらぎの御国のためと思なば蝦夷が千島も何いとうべき」。


 邦成はこうした義母の強い願いに負け、移住団に加えることにしました。明治四年、第三回移住団とともに、紋鼈の地に足を踏み入れた保子は、当初、枝張りの壁も襖もない、ムシロを敷いただけのところに住み、自ら装身具や道具類などを売って開拓民のために食料にかえました。そして、食器の代わりに、ホタテの貝がらを使って食事をしたといわれています。それを見ていた主従たちはどれほど励まされたことでしょう。そして、このことが伊達市の開拓を一段と早めたともいわれています。


 気丈夫さとやさしい心を持ち、多くの不幸にも屈せず、その半生を開拓に捧げた貞操院保子は、明治三十七年(一九O四年)十一月十三日、七十八歳の長寿をまっとうし伊達の地で他界しました。そして、その二週間後に、邦成も享年六十四歳で義母の後を追うようにこの世を去っています。


偉業をささえて(人物編3・萱場元賢)



若き開拓の功労者

 伊達開拓史のかげで尽力したひとびとは、数多くいます。なかでも萱場源之助元賢(かやば・げんのすけもとかた)は、田村顕允と同じく代々伊達家の家老職という家にあって、かげで開拓の偉業をささえながらも、悲壮な最期をとげました。


 萱場源之助元賢は、二十五歳で末席家老となり、伊達家でも、もっとも若い家老職でした。また、邦成と年齢が近かったことから、邦成の信望も厚く、その性格も非常に几帳面で、武より文をもって邦成に仕え、亘理伊達家の財政全般をまかされていました。


 戊辰の役に敗れ、田村顕允は邦成に本道移住を勧めましたが、家臣のなかでも慎重派の元賢は財政状況を判断し、当初は北海道移住に難色を示していました。しかし、明治二年、本道移住が決まると、元賢は主君とともに渡道を決意。第一回移住者のリーダーとなって北海道へ渡り、開拓執事代理として宅地割り当てなどの作業にあたりました。


 開拓が軌道にのると、元賢は好きな学問を捨てきれず、東京に出て大橋訥庵の漢学塾に入り、その塾頭となりました。同じ門下生には後年、政府の要人や三井、三菱の要職に就いた人も少なくないといわれており、のちに、そうした元賢の人脈が伊達の産業振興に大きな貢献を果たしました。


 明治九年、邦成は移住民の積立てなどを資金に共済や物産振興を目的としたい「永年社」を設立。しかし不振が続くため、上京していた元賢に社長になってくれるように頼みました。元賢が社長に就任すると、伊達産雑穀の集中委託販売や製油、製網業の経営にも乗り出しました。なかでも伊達の農業を全国に知らしめることになったのは、大豆や小豆の移出でした。


実直な性格ゆえに

 しかし、士族の商法からか、必ずしも事業は順調に推移しませんでした。明治十三年、三井物産との委託販売契約をしていた小豆の出来が悪いからという理由で、その代金が予定の金額に達しないという出来事が起こりました。


 上京していた社長の元賢は、その代金で社員に新品の被服類を購入して帰る予定でしたが、予算の都合から、やむを得ず古着類を購入して帰りました。しかし永年社のなかに、そのことを交際費の乱用などと誤解する者もあらわれ、元賢を厳しく非難しました。 常に、実直さを貫いてきた元賢にとって、それは恥辱にも等しいものでした。同年七月、元賢は死をもって身の潔白をはらさんと、自宅裏で農業用ハサミにより動脈を切って自害。わずか三十七歳という短い人生でこの世を去りました。


 のちに、その誤解も晴らされ、多くの人に惜しい人を亡くしたと悔やまれました。また、永年社は、役員もあいついで欠員になり、社運も衰えはじめ、四年後には解散となりました。


移民の危機を救う(人物編4・山田致人)



餓死寸前での決断


 明治三十三年、自治制が施行されると、伊達村の初代村長には亘理伊達家の出身者ではなく、四国出身の山田致人が選ばれました。山田致人と伊達がどういうかかわりがあるのか。今回はこの山田致人翁についてご紹介しましょう。 致人は弘化元年(一八四六年)伊予の国(現在の愛媛県〉大洲藩の支藩である新谷藩で代々藩医を勤める家に生まれました。十七歳のときに医学修行のために京都に出ましたが、時代は戊辰戦争へと突入。致人も新谷藩士として戦争に従軍しました。


 その後、致人は明治政府の弾正台(治安維持の警察機関)に任用され、司法省に統合されるときに退官。明治四年(一八七一年)には北海道開拓使八等として函館出張所(現渡島支庁)に赴任を命ぜられました。


 同年二月、伊達では、第三回目の移住(七百八十八人)が行われました。しかし、家具や農具を積み込んだ船が大幅に遅れたために移民の食糧が欠乏。移住は餓死寸前にまでおいこまれていきました。邦成から救済策を嘆願された札幌開拓使本庁の岩村判官は、政府とも連絡をとり、当時、函館出張所の監事をしていた致人に救済をするよう要請しました。ことの重大さを知った致人は樺太へまわす米を一時的に融通、そして、二千人余にわたる伊達移民の人命は、無事に救われることができました。


 その後、致人は明治十一年に開拓使を退官。大野村に移り酪農を始めました。クリスチャンだった致人は一時期、英国にも渡りますが、帰国後に再び理想の酪農郷を求めて館村(現在の厚沢部町)に入村。道路、公共施設などの建設にも力を注ぎました。


初代の村長として


 明治も半ばになり、移民の経済力が伸びると、自治制施行の要望が各地で起こりました。そして政府もその必要を認め、明治三十三年七月には、六村の合併により伊達村が誕生。このときの戸数は、千九百六十戸、人口は九千九百二十人に達していました。 三十年前の恩義を深く感じていた村民の間には、新しい伊達村の出発にあたりぜひ山田致人を初代の村長に迎え入れよぅという気運が起こりました。そして、村会議員によって選任され村長に就任した致人は、村民の期待に応えるベく精力的に村治に努力しました。


 しかし、不運にも肺病が発病。翌三十四年、療養のため仙台に渡り一時期、退院が許されましたが、同年九月に病気が再発し、やむなく村長を辞任して館村に帰ることになりました。その後、伊達村では再三就任の要請を行いましたが致人は丁重に辞退をしたといわれています。 明治三十五年五月、致人は息子の女性問題に責任を感じ、さらに病弱も手伝って自宅裏で自決。享年五十七歳でこの世を去りました。現在、致人の墓は、厚沢部町に建てられていますが、墓石には、生前より親交の深かった榎本武揚の筆蹟が刻まれています。


開拓の志は永遠に



 これまで、「第二部・興隆」では、明治三年の移住以来、今日まで、どのようにして伊達市が発展してきたのかをご紹介してきました。最後に総集編として、歩みをもう一度振り返ながら、なぜ開拓を成功させることができたのかを考えてみましょう。


武士団の結束強く


 明治維新とともに、本格化した本道の開拓。なかでも二千八百余人にものぼる武士の集団移住というのは歴史的にみても例のないことでした。


 戊辰戦争で敗けたことにより、武士としての身分さえ保つこともできず、流民同然の道しか残されていない亘理伊達家が、最後に活路を見いだしたのが本道の開拓でした。伊達邦成公を中心とした家臣の団結力、さらに、墳墓の地を離れて海を渡った限りは、二度とふるさとの地を踏むことはないに違いない。そうした気持ちが、むしろ、この開拓の挫折を許しませんでした。


 そして、こうした気持ちの支えとなったのが、明治十八年にできた「士族契約会」です。忠誠、団結、はじを知ること、倹約、教養などを怠らず、武士の道を守ることーこの契約会の厳しい会則が、お互いを励ましあうと同時に、隣保互助の精神で、開拓を促してきました。それは、今日も親和契約会という形で市内各地に残されていますが、伊達市の今日の隆盛の基は、まさにこの精神風土にょって培われ、育まれてきました。


 また、そうした慣習や精神風土が、他から伊達市に移ってきた人にとっては、逆に排他主義的なものとして、受け止められることもありました。しかし、人口も増加し、それぞれに親交が深まるにつれて、そうした誤解も解け、むしろ誠実な面が理解されるようになりました。


進取の気質で挑戦


 開拓を成功させるには、何から何までが初めてということもあり、進取の気質をもって、多くのことが試みられました。農業では、いち早く西洋農機具を導入し、プラウ耕の先進地になります。さらに、牛を飼って地力を培養し、菜種をはじめ藍、亜麻、甜菜などの特用作物を栽培して換金性を高め、自給自足を主眼とする寒地農業の確立をはかってきました。商工業でも製油、製麻、製藍、味噌・醤油醸造をど農村工業に先鞭をつけ、ひいてはわが国最初の近代的製糖所の設立を促しました。


 そして、何よりも忘れてはならないのが、道内でももっとも温暖な気候と自然環境に恵まれていたことです。いま、私たちは、二十一世紀を目前にし、伊達開拓の歴史を振り返りながら、先人の残してくれたこのすばらしい遺産をどのように未来に生かしていくかひとりひとりが考えていかなければならないと思っています。